FUMIO YASUDA COLUMN

2017/05/02 ピアノ選びの日
5/22のレコーディングに向け、曲は午前中からサウンドシティ世田谷スタジオに行って
ピアノ選びをしました。ここはスタインウェイとベーゼンのフルコンが2台あり、
かなり悩んだ結果スタインウェイD型に決定。

2017/04/27 レコーディングとライブ
5/21から5/23までヨアヒム・バーデンホルストさんと井野信義さん、Akimuseさんと一緒にレコーディング。さらに5/23はスペインの古楽オーケストラに書いた曲の音源のオーバーダブがいくつかある。そのために新曲を書かかなければならんのだけれど、まだ、4曲しかできていないのだ。困った。

海にて

2017/04/12 「Fumio Yasuda :Musique d'entracte」の紹介記事です。
CD「Fumio Yasuda :Musique d'entracte」の Winter and Winterによる紹介記事です。


2017/03/05
フルーティストの山形由美さんと初共演の日。
プログラムのほとんどを私の作編曲のフルート曲の中から選んでいただきました。
山形さんの美しいフルートの音色とともに、大変楽しく演奏会は進行しました。
ピアノソロも即興演奏を2曲ほど披露させていただきました。

2017/02/06 ムラマツ・オリジナル・シリーズ
ムラマツ・オリジナル・シリーズというフルートとピアノのピースのシリーズのVol.64を脱稿しました。サティのトランスクリプション2曲とオリジナル1曲です。

Final Paraphrase after Satie (Erik Satie-Fumio Yasuda)
Tendrement Paraphrase (Erik Satie-Fumio Yasuda)
La Petit Valse (Fumio Yasuda)

2016/08/09 10年前
あまりにも本が増えすぎたので、掃除をしていたら、
10年前にテオ・ブレックマンとニューヨークのノイエ・ギャラリーでやったコンサートの写真がでてきました。
年月はあっという間に過ぎて行きますね。

2015/12/23
NHK BSプレミアム「井浦新アジアハイウェイを行く」の挿入曲です。Akimuseさんとのデュオを収録しました。下記からどうぞ。
https://youtu.be/wanH0xoi-9k

2015/11/27 Piano 録音録画
かながわアートホールでのPiano 録音録画。榎本憲男監督、akimuseさんのお力添えで無事終了。

2015/10/30 ヨアヒムとレコーディング・セッションライブ
ベルギーのClarinet奏者のヨアヒム(Joachim Badenhorst)さんと録音セッション・ライブ。ぼくの曲を6曲ほどセッションしました。
ヨアヒムとはこの日初対面。チェロのエルンスト・ライジガー、NYのシンガー、テオ・ブレックマン、フランスのノエル・アクショテと知己だそうでメッセージをもらい急遽ライヴとなりました。どこかでみんな繋がっているんだナとの感深し。akimuseさん,巨匠井野信義さんと4人の不思議な一期一会の音楽一夜でした。

2015/04/01 井上淑彦のこと 
井上淑彦のこと      

サックス奏者の井上淑彦とは40年ちかく前、1976年頃横浜の中華街にあったストーク・クラブで初めて出会った。
当時ストーク・クラブはアメリカン・スタイルのジャズクラブとして知る人ぞ知ると謂われた店で、外人客も多かった。といっても一流どころのジャズマンは出ておらず、横浜の地のバンドマンのうちジャズの腕に覚えのある者が何人か交互に出演しているのだった。
大学を出たばかりの私はJAZZのイロハも知らないままほんのアルバイトのつもりでピアノのエキストラを引き受け、週2回ほど出演していた。
井上はそこへ時々遊びにきていた。ニューヨークから帰ったばかりで颯爽としており、すでに「俺は違うぞ」的なオーラを放っていた。
バンドマン崩れの地元のギター弾きが「井上君は世界を見てるんだよ」と皮肉っぽくいった。「俺らと違ってさあ」。
その後、音楽に専心しようと決め、2年間勤めた昼間の仕事を止めたとき、なぜか井上に電話した。彼の「そりゃ、よかった」という一言が身にしみた。
1970年代の終わり頃失火により全焼したストーク・クラブが関内に移転し、ニュー・ストークとなり、私は井上淑彦と組んで毎週火曜日にセッションをすることになった。
どうせならオリジナルもやろうということになり、オープン・スカイと名前を付けたバンドをやった。活動範囲も横浜を離れて、新宿タロー、ピットインに広がり、金井英人5や板谷博マルチフォニックスなどいろいろなバンドで演奏を共にすることが多くなっていった。
ある日リハーサルで横浜山手の彼の自宅スタジオに行くと、ジャイアント・ステップスのアドリブラインの書きかけが山のように譜面台に乗っていた。「俺は階段をひとつずつ確かめ、極めてから、その次を行きたい」と言った。そのうち1984年だったか彼に初のリーダーアルバムの話が持ち上がり、ストークで一緒にやっていた米木康志(b)礒見博(Dr)とのカルテットで青山のビクターのスタジオ研修日に録音することになった。
曲はマイルスやコルトレーンのものが中心で、例のジャイアント・ステップスも入っていた。
カインド・オブ・ブルーはデュオでやった。
乗りすぎて1テイク目はテープが足りなくなった。
アルバム・タイトルは「ジャイアント・ステップス」にしたいと井上は言った。この録音は彼の最初のステップだなと思った。
彼のポートレートのジャケット案も見せてもらったが、結局、演奏の出来はあこがれのジャズへの渾身の習作といったところに終わり、このレコードの話は沙汰止みとなった。

その後、井上はドラマーの森山威男のバンドの音楽ディレクションを任され、日本のジャズ界になくてはならない存在となり、私とは離れて行った。日本のジャズの風土に合致した一面も持っていたのだと思う。

井上とは15年ほど前に一度だけ横浜のセッションで共演して以来会っていない。こんなに早く亡くなるとは思わなかった。
晩年、若手ミュージシャンに尊敬され、彼自身のオリジナルの花々が咲き誇ったときく。
井上は結局あのジャイアント・ステップスを再録音しないで世を去った。ジャズという手本があり、目指すものがはっきりあった青春時代は暢気でシンプルで楽しかったが、端正で良心的演奏をする芸術家肌であり、ジャズを信じ、ジャズのタイム感という理想を追い求めるところからスタートした彼は、結局のところ、オリジナリティーとジャズとの相克について煩悶したのだと思う。彼にもう少し時間があればと悔やまれる。
もういちど昔に還ってテープが足りなくなるような青春の熱いデュオを彼とやってみたいと思う。

何つったって井上が最高だよなあ。といいたい。

合掌

(写真)1979年頃。吉田日出子、安田芙充央、井上淑彦 みんな若い、、


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