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アンドレアス・オブスト(フランクフルターアルゲマイネ紙・音楽評論家)によるコメント | |
世界を音楽で表すとどのように響くのだろうか? この問いに答えるには、初期の民族音楽の様式にさかのぼる。 オランダ人はすでにルネッサンス期に、 遠く地中海地方からの異国情緒あふれる自然サウンドを取り入れて、 豊かなマドリガルや器楽曲を生み出したものだ。 ジョスカン・デ・プレの『ラ・スパーニャ』には、昔ながらの音楽的要素に オリジナルのそれがきらびやかに溶け合っている。 モーツァルトは、有名なピアノ曲『トルコ行進曲』と同様のトルコ兵の にぎやかなファンファーレを『後宮よりの逃走』のスコアにもちりばめた。 ブラームスはハンガリー舞曲の編曲でプスタ地方の音をまねた。 ドビュッシーはインドネシアに一度も行かずにガムラン音楽を書いた。 アルベニスはピアノでタンゴを踊ったが、 アルゼンチンに行ったことはなかった。 これらの作品から聞こえてくるのは、音楽家の普遍性へのあこがれ、 つまり、同時にいたるところに存在し、どこにおいても同じように理解されたいという切望である。 しかし「ワールドミュージック」の潮流にもかかわらず、この望みは夢で終わることが多い。 この「ワールドミュージック」という言葉が、 飛行機により距離が問題にならなくなったジェット機時代に聞かれるようになってきたのも、まったく偶然ではない。 これは、こんにち世界中のレコードショップの分類法に反映されている。 「どんなサウンドでもあり」なのだ。 そして、「ワールドミュージック」という言葉は、子供のころ話していた 他の言葉と同じく、あまり頻繁に使われるので意味を失ってしまった。 つまり、まったく純粋な音となったのだ。 ただ音になる、これを試みる音楽家はあまりいない。 それも当然だろう。 音楽家が本気で自分の音楽に溶けて作品の影に隠れてしまうことを望むとは思えない。 しかし作曲家・ピアニストの安田芙充央は、驚くべき一貫性をもってこの道を進み、そして独自の結果を出した。 自らのパーソナリティーを虚構化することにより、生み出された音は、 様式やジャンルを越えた薄い空気の透明な高みへと昇ることができたのだ。 安田は以前、自分を突き動かす根本の衝動を、新しい何かを探求する試みだと説明したことがある。 安田はポップスにもクラシックにも安住してはいない。 では安田芙充央とは何者なのか。 経歴を見ても深くはわからない。 1953年東京生まれ、国立音楽大学卒業、ピアニストとしてはヨーロッパ式の教育を受けた。 10代で作曲とインプロヴァイズを始めた安田は、ジャズを弾き、スタジオミュージシャンとしての経験もある。 1990年代のはじめには国内でピアノアルバムも出したほか、オーケストラとの共演もしている。 2000年にWinter & Winter から初めてリリースされた『花曲』では、安田は花を愛する男だった。 写真家の荒木経惟とともに作りあげたこの音楽アルバムは、オーディオビジュアルの鏡の芸術だ。 安田が作曲した18曲とインプロヴァイズ1曲からは、荒木の撮影による肉厚で官能的な花が咲き誇る イメージを表現した音楽が溶岩のように流れ出す。 ドイツのロマン主義、アメリカのミニマリズム、ペルトの哀愁、ドビュッシーの東洋趣味などの影響が見られはするが、 そのどれにも間違いなく、きわめて安田的なフィルターがかかっている。 ヴェルディの没後100年を記念して2001年にWinter & Winterからリリースした『ヴェルディに魅せられて』の制作においては、 安田はAlexander Schiffgenという架空のピアニストの役になりきっている。 ピアノ演奏を通したこの物語は、世紀の変わり目直前という時代設定で、 安田の役はスイスアルプス山中にあるサナトリウムで療養中の音楽家だ。 ヴェルディの偉大なオペラのピアノ演奏をしているSchiffgenすなわち安田は、編曲ごとにオリジナルからだんだん離れて、 自身の音の空間に空想の夢物語を作り出していく。 そうする中で、偉大なヴェルディを、それ以後のジャズやブルース、とりわけ安田芙充央の音楽にそっと引き合わせるのだ。 2002年の『Schumann's Bar Music』というアルバムでも安田は架空のピアニストを演じている。 ドイツのミュンヘン、いやもしかすると世界でも最も有名なバーのピアニストだ。 現実にはシューマンの酒場にはピアニスト用のスペースはないだろう。 グラスの触れ合う音、バーテンがカクテルを作る音、ウェイターと客の酒談義、 そして、そこにはいつも音楽がある。 クローズアップで、しかし遠くで、まるで翌日の明け方のガンガンする頭を通して聞こえてくるように。 安田は映画音楽にジャズを入れたかと思うと、ポップヒットを演奏する。 どこのバーを探しても、これほど万能のピアニストにはお目にかかれないだろう。 『Heavenly Blue』の制作により次の一歩が踏み出され、期せずして、まるであつらえたように 安田の要求にぴったりにデザインされた音響空間が開かれた。 レコーディングはアコーディオン界の巨匠テオドロ・アンツェロッティをソリストにむかえ、 ベルント・ルフ指揮のバーゼル室内管弦楽団との共演で行われた。 作曲された7曲は世界全体に広がり、何世紀もさかのぼる。 どの程度未来まで共鳴するかは、これを聴く各人が決めることだ。 タイトルにはヒントが隠されているが、それ以上は語らない。 そのほかはすべて音楽。 タンゴが聞こえ、見る者の想像の中でフィルムがまわる。 アコーディオンは聞こえなくなったかと思うと物悲しい音を奏で、 フィナーレは群青の空に吸い込まれてゆく。 ピアノの音符は無限大を模索している。 が、それを弾くピアニストは消えてしまっているのだ。 - アンドレアス・オブスト(訳:川井孝子) |
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ステファン・ウィンター(WINTER&WINTERレーベル・プロデューサー)によるコメント | |
日本と西洋世界はかつて完全によそ者同士だった (このアルバムの写真は『日本−野蛮人にベールを引き剥がされた日いづる国』という本に収められているものだ)。 21世紀の今日、文化的差異の悪化は克服されるかのように見え、世界はひとつにまとまる。 ソフィア・コッポラ監督のなかなかおもしろい映画『ロスト・イン・トランスレーション』は理解と誤解を描いているが、 若いアメリカ人である監督は、東洋と西洋の直接的な関係には焦点を当てていない。 主役の西洋人は東京を短期間訪れただけだ。 それに対し、マルグリット・デュラス原作、アラン・レネ監督の傑作『24時間の情事』は、 アメリカによる原爆投下に引き続く恐怖の時代におけるフランス人女性と日本人男性の恋物語だ。 アラン・レネは当時は知られていなかった新しい美的手法で、異文化対立のはざまにある一組の男女の物語を作り上げた。 この日本とヨーロッパ文化の美しく魅力的な芸術的分析にインスパイアされ、 Winter & Winterは安田芙充央に、アコーディオンのテオドロ・アンツェロッティとバーゼル室内管弦楽団のための曲を依頼した。 安田は修行時代にはカール・アマデウス・ハルトマンに惹かれ、西洋のポップスとジャズの中で育ったが、 それでもなお根は日本の伝統にはっていた。 テオドロ・アンツェロッティの超人的な技巧に想を得た安田のアコーディオンコンチェルトには、 アンツェロッティの卓越した音のヴァリエーションと、弦楽オーケストラ(管楽器はのぞいた)に対峙する ヴィルトゥオジティーが反映されている。 そして安田は、弦楽カルテットの「レイン・コラール」を聴くと思い出される教会の鐘の音あるいは寺院の梵鐘のように、 聴き覚えがあるようでいて不思議ともいえる独特な音楽表現と音響領域を組み立てるのだ。 アルバム『Heavenly Blue』には、初めて録音されたピアノ協奏曲「ピアノと弦楽オーケストラのための架空映画」が含まれている。 安田芙充央は種々な画像を、つまり眼を閉じて見える映画を創造したいのだ。 安田の映像は別世界からやって来る。 その世界を我々は知っているつもりだが、実は知らないのだ。 - ステファン・ウィンター(訳:川井孝子) |
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私は長い間映画に憧れていた。 このCDは私の想像の映画であり、架空の映画音楽集といえる。 21世紀になったが、現実社会では夜と霧の世界がいまだに続いている。 音の流れは、映像を喚起する。 そして、魂のノスタルジアを呼び覚ます。 私はこれを重要に思う。 私は弦楽器の渾沌の中、浮かび上がる青白いメロディの下に墓標を建てた。 アコーディオンは時代のコラールを奏で、ソロヴァイオリンはかつて陵辱された王女の歌を歌う。 ピアノと弦楽オーケストラは無に向かって進んでいく。 「天の青」とは天から落ちた一片の花を意味している。 その花は蒼天の青い色そのものである。 - 安田芙充央 |